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 はじめに・・・
はじめに・・・と,このサイトの概要を説明するぺーじを作るのは普通は初めの頃に作る物だが,このサイトを公開してから1年半にして今更作っている。その理由としてはまず作者の菊池聡は文字盤(キーボードっ言え)を弾くのが遅いため長い文書を書くのがすこぶる面倒であるのと・・・・・新着のぺーじを作って処理していくのに忙しかった。それだけよ。
 こういうふうなサイトを作ろうと思ったのはかなり昔の事で,旅行好きでもなかなか行かしてくれなかった僕はインターネットで地名をバンバン検索して特に観光地などの写真付きのサイトを渡り歩いていたが,なんか物足りなかった。旅の醍醐味は移動の時間にあり,というのを思い出からである。

 まず,僕は小学校に上がる前から地図を見ているのと車で移動している時間が好き(これは本能か)でして,道路標識や地名(県庁所在地)など暗記していたくらいで,気が付くと漢字も読めていて漢字も好きになっていた。で,漢字好きになってしまった結果 世界地図(一応張ってあった)が眼中から消えたので,反国際的な人間になった「英語わかりましぇ〜ん」。
 茨城県というのは兎に角車がないと生活できないという土地柄で車に揺られながら育ちました。そんで僕は車の中では絶対眠れませんでした。車での移動の時間は景色が目まぐるしく変り僕にとっては映画を見ているような心地だったからです。そのうち子供が一本の映画作品を何度も見て台詞を覚えてしまうように,僕は何度も同じ所を通るうちその道を覚えてしまいます。そうすると今度は映画の続きが見たくなるように道の果てを知りたくなりますが,なかなかそれは実りませんでした。「大人になったら行ってやる」っ思ったものです。

街道・国道へのこだわり

 車にばっかり乗って生活したせいか,移動は完全な自動車派になりました。車の運転が出来ないため偶に汽車にも乗るのですがやっぱり自動車派なのです。理由を申しますと・・・初めに言って置きますが僕は自動車好きではなく道路好きです。その点で述べます。
 まず,鉄道と道路を比較した時,道路から見た風景の方が情報量が多い事。僕は出掛けるときまた旅行する時は必ず途中を楽しむ その場合注目するのが標識・看板や信号名から見る地名。それから途中通る市町村の街並みから読み解く大よその規模などを眺めながら地理的な情報知識を得ながら歩くのが一番の旅の面白いところだと思うのです。鉄道の場合はどうしてもそれに欠けてしまいます。 それから,鉄道に乗った場合,先頭車両の一番前にでも乗らない限り側面から見る景色になります。そうなると景色が変るのが早すぎて連続性が感じられず やっぱり前方を見ながら移動しないと僕は気持ち悪いのです。 鉄道贔屓の方申し訳ございません。
  (平成15年5月11日記)
 

 地名の神秘
 地図を眺めていると,或いは車で道を走っていると出会う物が地名である。どう云う訳か地名に惹かれる・・地名特有の音の響きや字の並び。意味がありそう・・でもよく分からない。何か根深い物を感じるのである。
 日本の地名の特徴は,その大方ははっきりとした意味がわからないものが殆どである事だ。それは何故かといえば,日本語がまだ成立する以前の言語だからというのが一般的な説である。アイヌ語や遠い遠い昔に南方系のポリネシア語やハワイ語または朝鮮語などを話す民族が渡来してきて住みつき付いた地名であるとか・・・諸説あるので絶対これだというのもはない。
 (ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源)http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/ というHPも御座いますので 一つの説としてご参考にして下さい。
 一概には云えないが,僕は地名の多くは日本語ができる以前の原始日本語で,そして字はずっと後(奈良期)に好字などを当てたものであり徐々に日本語に近い音に変化した物と認識している。でも僕は言語学者でもないし言語学に精通している訳でもないし,地名の意味などはあまり追求しないことにする。この朦朧とした響きに想いを馳せるのもいいであろう。しかし,全部が全部古代からある地名とは限らないので わかる範囲で由来などを調べてゆきたい。
 地名を不思議な物と貴ぶ文化は昔からあったようで,和銅5年(712年)に編纂された「風土記」にも地名伝説が数多く書かれているのだ。ここに書かれているのもはあくまでも伝説でしかないが,地名に対する関心の高さが裏付けられる。
 この「目的地までが目的地」では地名を鑑賞するものとして,実地に行ったつもりになれるような写真や歴史などで地名が持つ何か神秘的な物を感じて貰えたらと思ってる。また,昨今は市町村合併で,市町村名また郡名という地名の表舞台から数多く消える。しかも,今度の平成の大合併というのはあまりにも広域過ぎしまうが故に新市町村名がうまくつけられないという現象が生まれるのである。結果,軽はずみの近現代的な語呂よい単語を多用した地名特有の魅力の微塵もない地名が横行しているのである。それが僕には無念でならないのだ。
 勿論 小単位の字名・小字などは今までのように残るだろうが・・・そもそも字名というのは江戸期の村名であり地名の真骨頂であるが表舞台にはなり難い。やはり市町村名と言うのはかんばせであるのだ。地名の在り方が行政本位になる昨今で僕は地名とというもののなんたるかを問い掛けたい。そして,地名の多くは現代人の想像がつかないような超古代から伝わる言葉であることとすれば それは日本の民族遺産なのだ。また日本の神秘そのものなのだ。だから地名に関心を抱いて欲しいし,何か感じて欲しい。そして大事にして欲しいのである。
 鳥の鳴き声や虫の声など なにか人間には無意味な物を風流だと貴ぶように,意味的には朦朧としたのもを貴い思うことこそ我が国の文化である。 
  平成16年3月11日記

 地名は景観の一部である 〜山方町がなくなって思う事〜
 しつこいかも知れないが,平成の大合併と言われる市町村再編に対して憂いや不穏感を抱き続けている。また自分が住んでいた山方町が事実上消滅して2ヶ月経とうとする中で,更に怒りや悲しみを通り越した不穏な気持ちが湧きあがるのである。少し外に出て見ても山方町や美和村という文字が今までの存在を抹消するかのように消され「常陸大宮市」の文字が躍り,自宅に届く郵便物の宛名には「常陸大宮市」と書かれた物が多くなる。それを見て睨みつけたり憂鬱になったり・・・また自分の住所に「常陸大宮市」と書くのが非常に癪(シャク)でいっそ山方町と書いてしまおうかと迷ったりする。
 基本的には山方町がなくなるのが嫌なのではなく,全国的に合併が促進される事が憂いに思うのであるとしてきたがー。まず自分の町が消滅するということがどんな気持ちか書き表してみる。自分は地名収集が好きで,少なくとも書の世界に足を踏み出し地名に関する作品を生み出したいという考えがあるために土地に対する思いが人の何倍も強く,このホームページを作り上げた動機でもある。そのことで普通の人より粘り気があるかもしれないが正直な気持ちである。
 率直に言うならば「山方町は山方町でなければ意味が無い」という思いが拭えない。明治22年の合併・昭和30年前後の大合併を経て今に存在した山方町が誕生した。およそ歴史は50年・・そんなに深くは無い。山方町は,元の山方町全域と下小川村・諸富野村のほぼ全域・塩田村・世喜村の約半分づつが合わさり出来た町。多分,地勢的なものや寺の関係によって分村までして山方町に所属したのであろう。誕生して以来,人口は減りつつあったが特産の歴史ある和紙や鮎,最近では漆製品を特産にしようと山方町の特色・文化として確立させてきた。そしてその特産を中心に山方町をもっと知ってもらおうと「町おこし」に励む昨今であり,日本全国の市町村も同じである。ここまで市町村として確立されてきた町や村を人口が減ってきて財政の理由で統合させてしまい,町村の名前まで奪うのは非情と呼ぶほかに無い。しかも合併して人口3万いれば「市(本来5万)」にしてあげるという発想は田舎者を馬鹿にしているとしか思えなく,市町村名がより事務的になり合併には居た堪れないのである。過去の大合併とは全く別物だ。
 山方町が山方町であるのとないのでは雲泥の差であり,来る人の印象も全く違うものがあると思う。特に初めて来る人にとってはここが山方町であった事は一切感じる事は無く素通りされてしまい兼ねない。故に印象に残り難い。決してたかが名前と侮ってはいけない。特に「市」だと田舎の農村や漁村という景色に融合しないのである。例え人口が何百人になろうとも人がいるかぎり「町・村」である。
 
 近代国家が始まった明治維新から140年余りの歴史で全国規模の市町村再編は今回で3度目に当たる。特に現世では時代の移り変わりが目まぐるしく,行政のあり方も変革を伴わなくてはならない場合もある。ただそこまで合理主義であっていいものか,束ねるという事は数色あったもが1色にしてしまうこと。いくら旧町村単位の文化や歴史は守ると言ったとしても,まず名前を失っている。名を失うことにそのことに関しては前に述べた通りであり,分化することが文化の始まりである。
 広域合併の先駆けで,5市9町村が合併した「いわき市」を例を挙げると,元の町村部の衰退が著しいという。そのため福島県のいわき市に近い町村では合併に対する抵抗感が熱烈にあり合併しない町村が人口が少なさにも関らずが多い。事実,いわき市と言うと元々の市部である平・勿来・常磐といった都市部しか思い浮かべない人が殆どで,完璧に元の町村部は忘れ去られて特産も何かなんて打ち出すことすらできない。というのが現実ではないでしょうか。
 日本の国土の殆どは田舎であり都市部なんて一握りである。しかし,人口の多さで市町村の価値が計られてる昨今はいい風潮とはいえない。しかも現代ではグローバル社会といわれ全体主義の考え方が蔓延しつつある。それは文明上そうなりつつあるのかも知れないが,むしろ視野を狭めてもう一度自分の国や地域を細かく見つめる事が重要だ。
 その為に行政の最小単位である市町村の合理化・広域化こは強く抵抗しなくてはならない。日本の地方文化の衰退にあたり,僕はこの場を通して町村の「束ね」にあくまでも拒絶していく。更に市町村の分化を訴えてゆきたい。せめても,旧町村単位のもの表上にを残すべきである。
 さもなくは地名文化の崩壊は免れない。  
 平成16年12月16日記



表紙目的地までが目的地(聡の館 別館)

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